シニョーリア広場とは
シニョーリア広場はイタリアのフィレンツェにあるヴェッキオ宮殿前の広場です。多くの観光客だけでなく、フィレンツェの人々の待ち合わせ場所でもあります。さまざまな印象的な彫像がこの広場を取り囲んでいます。
アクセス
・ドゥオーモから徒歩6分
・サンタマリアノベッラ駅から徒歩17分
見どころ
シニョーリア広場
ジャンボローニャ
「コジモ一世騎馬像」
1594年に建てられた像です。コジモ一世は1537年にフィレンツェ公、1569年には初代トスカーナ大公となり、それまで立場上は有力な富豪市民だったメディチ家を、名実ともにフィレンツェの支配者とした人物です。
コジモ一世は明敏な頭脳、冷酷な決断力を持ち、マキャベリ的絶対君主の資質を持っていました。内政ではメディチ家への権力集中、法制度の整備、産業振興などを進め、外交では神聖ローマ皇帝の警戒を掻い潜りながらトスカーナ各都市の領有化を進めました。
バルトロメオ・アンマナーティ
「ネプチューンの噴水」
「広場の噴水」ですが、今は工事中のようでした。アンマナーティ「ネプチューン」だけは見えますが。
この噴水は1563〜1565年に造られました。もともとはバンディネッリに依頼された仕事だったそうですが、バンディネッリの死去に伴い、弟子であったアンマナーティに引き継がれたそうです。
コジモ一世は1562年、フィレンツェ海軍を創設しました。1571年にはオスマントルコとのレパント海戦に参戦して功績をあげています。この像にはフィレンツェの海軍力を示す政治的メッセージが込められていました。ただし「白い大男」と呼ばれ、市民の評判は良くなかったようです。
1498年、この広場で絞首刑のち火刑に処された人物がいます。一時は神権政治でフィレンツェを支配したサボナローラです。
ロッジア・ディ・ランツィ
ヴェッキオ宮殿前のロッジア・ディ・ランツィです。ここはかつて外交式典などの政治の場だったそうです。
今は彫刻の傑作群がひしめきます。
ベンヴェヌート・チェッリーニ
「ペルセウス」
ロッジアの左端はチェッリーニ「ペルセウス」です。ギリシャ神話の英雄ペルセウスが魔物のメデューサの首を討ち取るところ。にしても凄惨な作品ですね。
魔物とはいえ、女の首を掲げて身体を踏み潰しています。
この作品の依頼者はコジモ一世。コジモは冷酷非情な面を持ち合わせており、己の威厳を見せつける意図があったようです。
チェッリーニは1545年から1554年までかけて、大変な苦心をしてこの作品を完成させています。ブロンズの鋳造には何回も失敗しているそうです。
ちなみにこの台座もチェッリーニによるものですが、レプリカであり、オリジナルはバルジェロ美術館にあります。
コジモ一世はヴァザーリ、チェッリーニ、ブロンズィーノの3人を特に重用し、メディチ家の栄光と威厳をプロパガンダしていきました。現在フィレンツェ の街並みを飾る、壮麗な建築、モニュメント、装飾はコジモ一世の時代に造られたものが多いのです。
ジャンボローニャ
「サビニの女の略奪」
ロッジアの右端はジャンボローニャのこの作品です。1579年から1583年にかけてつくられました。ローマ建国神話を題材としています。アカデミア美術館に石膏版がありましたけど、こちらは大理石です。
この3体の絡み合いが躍動感ありますね。マニエリスム彫刻の傑作です。
これはコジモ一世の息子のフランチェスコ一世の発注だそうです。メディチ家の統治が安定したために、「ペルセウス」のような威圧的で政治的なテーマから、躍動的で自由なテーマに時代の要求が変化していったのかもしれません。
ジャンボローニャはその名前からボローニャ出身と思われがちですが、イタリア人ですらありません。フランドル人です。フランチェスコ一世のお気に入りの彫刻家でした。
ジャンボローニャ
「ケンタウロス・ネッソスを打つヘラクレス」
その隣もジャンボローニャです。1599年の作品です。
ピオ・フェンディ
「ポリュクセネーの陵辱」
これは比較的新しく1865年につくられています。
ロッジアの奥には5体の女性像が立っています。
ヴェッキオ宮殿の入り口
ヴェッキオ宮殿の入り口には、対の像がありますね。
ミケランジェロ・ブオナローティ
「ダビデ像(レプリカ)」
もちろんレプリカで、本物はアカデミア美術館にあります。
もともとはこの政庁舎前の位置に置かれていたんですね。しかし暴動による損壊(実際に左腕が破壊されたことがある⇨ヴァザーリが修復)や、風雨による劣化を避けるため、1873年にアカデミアに移動しました。
「ダヴィデは青空の下に置かないと意味ないの!」と言ったミケランジェロの気持ちがわかりますね。
このレプリカは1910年から置かれているそうです。レプリカって言っても100年の歴史があるのはすごい。
バッチョ・バンディネッリ「ヘラクレスとカクス」
1525〜1534年の作品です。
「ダヴィデ」が賞賛の嵐だったのに対して、こちらの作品は不評で「大きなジャガイモ袋」と揶揄されました。芋くさい、野暮ったいという印象だったんですかね。
バンディネッリはミケランジェロを勝手にライバル視して牙をむいた、とされます。バンディネッリは「狂人よりも不安定な頭脳の持ち主」と揶揄される、アブナイ人でした。
この作品を注文したのは初代フィレンツエ公・アレッサンドロ・デ・メディチでした。コジモ一世の前にもフィレンツェ の領主となった人がいたんですね。ただしアレッサンドロは粗暴な若者で人々から嫌われ、最後はあっさり暗殺されてしまいます。アレッサンドロの後継として連れてこられたのが、遠縁の17歳の若者・コジモ一世だったのです。